1,600mの志賀高原
ここにしかない
自然を過ごす。
Only in Shiga Kogen Spend time in nature.
Story
1

私たちと
志賀高原

Shiga Kogen for us
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岩菅山に
抱かれて

Hugged by Mt.Iwasuge

岩菅山(標高2,295m)は、志賀高原の最高峰である裏岩菅山(2,341m)と合わせて、私たちにとっては裏山といえるほど親しみのある山です。
夫の秀信にとっては幼い頃から登り親しんだ山であり、妻の秀代にとっては学生の頃に虜となり、志賀高原へ導いてくれた山でもあります。
1998年の長野冬季オリンピックの際、岩菅山山頂付近をスタート地点としてアルペンスキー会場にする計画が示されましたが、自然保護を求める声が高まり、白紙に戻されました。
この決断は、まちがいではありませんでした。1960年代以降、急速な開発の進んだ志賀高原にあって、岩菅山周辺は志賀山とともに原生的な自然の姿をとどめています。

置かれた場所で
咲くように

Bloom where you are planted

岩菅山には、ほかでは見られない多くの高山植物があります。6月初旬の開山祭を過ぎ、残雪が消えて山肌が緑に染まるにつれ、足元には可憐な花が次々と咲いていきます。
シナノキンバイ、ハクサンイチゲ、ハクサンコザクラ、ムシトリスミレ、ツガザクラ、オノエランなどなど。ある年には、リンネソウの夫婦花がそろって咲くのを見るために、こちらも夫婦そろって山に何度も足を運びました。
高山植物は、丈を低く密生し、一斉に開花して虫を呼ぶ生存戦略で、過酷な環境を生き延びています。その健気で美しい姿は、高山でしか見ることができません。この花のように、私たちも私たちらしく生きていける場所が、この志賀高原なのです。


初夏の裏岩菅山山頂付近

リンネソウ(見頃7月)

初夏の裏岩菅山山頂付近

リンネソウ(見頃7月)

初夏の裏岩菅山山頂付近

リンネソウ(見頃7月)

シナノキンバイ(見頃6月)

ハクサンイチゲ(見頃6月)

ハクサンコザクラ(見頃6月)

ムシトリスミレ(見頃7月)

ツガザクラ(見頃6月)

オノエラン(見頃7月)

スイスの山小屋
「シャレー」

Swiss mountain hut "chalet"

志賀高原の開発は、曽祖父の五代目・佐藤喜惣治の尽力もあって1927年から本格的にはじまりました。なかでも一の瀬は最後に開発された場所で、一の瀬ダイヤモンドスキー場が開場したのが1964年のこと。
それに先立ち祖父の六代目・喜惣治が、志賀高原ロープウェイ建設のためスイスへ視察に行った際、山小屋が立ち並ぶ景観に心を打たれ、これを一の瀬で実現したのです。
志賀高原は、当時すでに上信越高原国立公園に指定されていましたから、高さや色、形状など、さまざまな制約がありましたが、切妻屋根のシャレー建築は規定に適い、志賀高原の自然によく調和したのです。


1980年頃の一の瀬ダイヤモンドスキー場

1962年頃の祖父ヨーロッパ視察

1980年頃の一の瀬ダイヤモンドスキー場

1962年頃の祖父ヨーロッパ視察

私たちが
できること

What we can do

1993年をピークにスキーブームが去り、一帯はすっかり静かになりました。オフシーズンにあたる夏季は観光客もまばらです。これは宿を営む者にとって課題ではありますが、志賀高原の魅力がもっとも発揮される時期でもあります。
志賀高原の自然を売りにする以上、私たちはこの自然を守っていかなければなりません。自分たちのためである以上に、人が自然への関心を失った時、森林破壊や環境汚染が進んでしまうのではないか、そんな危機感があるからです。
祖父が創業し、伯父から父へ受け継がれ、私たちが引き継いだ「シャレー志賀」で、私たちはどうしていくべきかここで暮らしながら、訪れる人をもてなし、志賀高原の魅力を伝えていくこと。それに尽きると思っています。


1969年秋/開業間もない頃

現在の様子

先人たちの
こと

About my ancestors

雪厚く閉ざされる入会(いりあい)の山を志賀高原と名づけ、スキーリゾート創生に導いた曽祖父。道路舗装もされていない開発途上の一の瀬に、シャレー志賀を建てた祖父。そして、志賀高原の発展に奔走した伯父と、かけがえのない豊かな自然を愛し、守るために尽力した父と母。彼らから引き継いで今、私たちのシャレー志賀があります。


1969年開業当時


1969年開業当時


1969年開業当時


1979年 解体の様子。最初の建物は木造だった

1979年 現在のシャレー志賀を建設中
志賀高原を
作った一人
曽祖父
5代 佐藤喜惣治(重治)Kisouji Sato
明治8年1月18日生まれ
株式会社玉村本店代表取締役/初代和合会理事長

曽祖父の佐藤喜惣治(きそうじ)は玉村本店の五代目として今ある酒蔵を建て、平穏村沓野の財産区であった山野を守るために和合会を立ち上げ、初代理事長となりました。長野電鉄の神津藤平(こうづとうへい)氏らとともに一帯を「志賀高原」と命名し、開発に尽力しました。

シャレー志賀を
作った人
祖父
6代 佐藤喜惣治(十治)Kisouji Sato
明治41年8月9日生まれ
シャレー志賀初代会長(昭和44年〜昭和55年) 株式会社玉村本店代表取締役/旧志賀高原ロープウェー株式会社代表/5代和合会理事長

祖父の六代・喜惣治は、真面目で堅実、面倒見の良い人。 戦中戦後は多くの文化人を受け入れたそうで、本家には日本画家の奥村厚一、上村松篁などの描いた絵が数多く残されています。昭和44年にシャレー志賀を立ち上げました。

志賀高原を
発展させた人
伯父
7代 佐藤喜惣治(伯太)Kisouji Sato
昭和12年6月13日生まれ
シャレー志賀初代社長(昭和44年〜平成5年)
12代和合会理事長/長野電鉄取締役

七代・喜惣治は私の伯父にあたります。急逝した先代の役務を引き継ぎ、シャレー志賀は弟である私の父にゆずりました。焼額山の開発や長野オリンピックの開催など、激動の時代を飛び回り、とにかく忙しい人でしたが、かつて本家に下宿していた私はよく面倒を見てもらいました。

シャレー志賀を
発展させた人
佐藤郁男Ikuo Sato
昭和14年3月2日生まれ
シャレー志賀2代社長/現会長(平成5年〜平成25年)
志賀高原の自然を愛護する会会長/志賀高原旅館組合長

自然保護と環境問題に取り組み、妻の東子と山をよく歩き、独学で志賀高原を学びました。平成11年、当時の浩宮皇太子ご夫妻が志賀高原ご滞在の折に案内役を務め、その6年後には皇太子殿下を岩菅山にご案内しました。志賀高原の自然を愛する人です。

佐藤 秀信Hidenobu Sato

山ノ内町渋温泉生まれ、シャレー志賀育ち。子どもの頃は絵を描き、本を読み、作ることが好きだった。中学生で父親のカメラを持ち出して、草花や友人を撮るようになる。大学では油彩画を専攻。卒業後、家業に入りつつ、オーストラリアでスキー修業を敢行。日本写真家協会正会員であり、スポーツ写真家とホテルオーナーの二足の草鞋を履く。

佐藤 秀代Hideyo Sato

神奈川県相模原市(旧津久井郡藤野町)出身。子どもの頃は野山を駆け回り、ヘビやカエルを振り回すおてんば娘だった。大学では経営学を専攻。シャレー志賀の常連だったゼミ室の教授に連れられて志賀高原をたびたび訪れ、岩菅山に魅せられる。趣味は山歩き。北信五岳や近隣の百名山は踏破済みだが、年数回登る岩菅山がやっぱり一番好き。